ロンドン 2012年08月05日 日記 トラックバック:0コメント:0

某匿名掲示板での活動

1341719802945.png
ちゃんみおとゆっこの邂逅

1341720599828.png
流しそうめんは初めてだからとっても楽しみだ。

1341723280695.png
目に見えて革命的。

1341732047717.png
マミさんだって年頃だからしょうがない。

120715yg.jpg
ユグのおっぱいは、もう、しょうがない。

普通日記 12.8.5
4部連作


月刊ゲームレビュー
第774回:『カイロソフト まんが道場』

お手軽なシミュレーションゲームで人気なカイロソフトの『まんが道場』iPhone/iPadのアプリ(98円)を
遊んでみたのでその感想をひとつ。

ゲーム自体は単純です。
プレイヤーは『漫画創作』と『修行』と『取材』の3つの行動を選ぶことが出来ます。

『漫画創作』をするためには、『知識』、『体力』、『時間』を消費します。
面白い漫画を描くためにはより多くの『知識』が必要となります。
『知識』は消費すると減っていき、時間経過では増えていきません。
『体力』は睡眠を取ることで上限値まで回復していきます。

『知識』を増やすためには、『取材』をする必要があります。
『取材』をするためには、『お金』と『体力』と『時間』を消費します。
取材先は色々あり、行き先に応じて『お金』『体力』『時間』の消費量が異なります。

また、『修行』をすると、『画力』『センス』『発想力』『教養』をアップさせることができます。
『修行』をするためには、やはり、『お金』と『体力』と『時間』を消費します。

プレイヤーは上記3つの行動を選択しながら、原稿を描き、出版社に投稿したり、持ち込んだり、
ストックしたりします。
質の高い漫画を描けるようになり、評判が良くなれば、仕事が色々と舞い込んできます。
仕事には納期が設定されており、納期に間に合うように原稿を仕上げる必要があります。
漫画が掲載されると、原稿料が入ってきますので、それでまた『修行』したり、『取材』したりします。


さて。

このゲームを続けていくと、『ある状況』に収束しています。
おそらく、どのように進めていっても、最終的にはこの『ある状況』に辿り着くのでしょう。

それは、『なんのために漫画を描いているのか、わからなくなる』という状況です。

人気漫画家になると、連載を始めるようになります。
1週間に1本の漫画を描く必要があり、だいたい、5日間は漫画を描きっぱなしです。
『体力』が少なからず減ってきます。しかし、余った2日間は『取材』に費やさないと『知識』が
補充出来ないため、無理矢理行動することになります。
しかも、結構ランクの高い『取材』をしないといけませんから、『お金』をガンガン使います。
だいたい原稿料以上のお金を使うため、貯金がズンドコ減っていきます。
単行本が出たり、アニメ化されたりするとある程度まとまった『お金』が入ってきますが、
その大半は『取材』に費やされます。

そしてそこで得た『知識』はそのまま次週分の『漫画創作』に費やされます。
5日間、漫画描きっぱなし。そして『取材』。

ゲームの数値だけを見ると、下記のような状況になります。

・漫画を描くと、結果として、『お金』が減っていく。
・漫画を描くと、結果として、『体力』が減っていく。
・漫画スキルだけは蓄積されていく。

その内、『体力』不足が限界に達するので、休むことになります。
睡眠しまくりです。回復したら、また『取材』して、『知識』を補充します。

だいたい、このサイクルを何回か過ごすと、
――いったい、何のために漫画を描いているんだろうか……
と思うようになります。

お金は貯まらず、健康は失われ、時間はガンガンと消費されていく。
ちょっと手を抜けば人気が下がり、ボツになり、収入が減るのでまた『取材』する。
生活費を削って『取材』をし、漫画を描き、体力が減るので余暇はひたすら寝続ける。

――いったい、何のために漫画を描いているのか。

模範解答は、『漫画を描くのが楽しいからである』というものですが、
人間、そんなに単純ではないというのも、また現実ではないでしょうか。

そんな悩みを抱えながら漫画を描き、もう、ゴールしてもいいよね、的に
連載を終了することになります。
すると、途端に生活に時間の制約がなくなり、何もすることがなくなります。

やることがないので、ずっと寝続けてしまいます。
しかし、体力は上限以上には回復しないので、無為に時間が過ぎていきます。
かといって、『取材』をするとお金が掛かります。収入が無いので死活問題です。
かといって、ぼけーっとしていても『知識』は増えません。
適当な『漫画創作』をしても、『知識』の無駄使いになるため、勿体ないのです。
どうせ描くなら、良い漫画を描きたい。
なんのために?
漫画の連載をするために?

また、あの地獄を繰り返すのか?
それは、なんか、嫌だ。

ただただ、自問自答の日々です。時計の秒針は切れ味の良いナイフのように私の目の前を廻ります。
プレイヤーはiPhoneを握りしめて、不安に襲われるのです。

なんのために、なにをするのか?

もはや、その問いはゲームを超えて、私たちのリアルに降り注いでくるのです。

カイロソフトの『ゲーム発展途上国』もまた、同じような問いかけに私たちにするのです。
『ゲーム発展途上国』はゲーム会社を運営するゲームです。
社員を雇い、教育し、ゲームを開発し、販売します。
このゲームもまた、『お金』と『研究データ』(『知識』と同じようなものです)を費やして
ゲームを作るため、結局、『ゲーム』で稼いだ『お金』と『研究データ』をゲーム開発に投入する、
というサイクルになります。

ゲームが売れなければ、『お金』も『研究データ』も入ってこなくなり、次のゲームが作れない。
良いゲームを作るために、その前段として、良いゲームを作る必要があります。
その繰り返しになにか無常感を覚えたら、もうおしまいなのです。

カイロソフトのシミュレーションゲームが傑作なのは、このような状況を作り出すためのパラメータ増減の
バランスが絶妙だからでしょう。
そして、それは絶妙であるが故に、ゲームを超えて、プレイヤーの心に訴えかけてくるのです。

人生の全てを賭けて、漫画を描く。
人生の全てを賭けて、ゲームを作る。

本当に、あなたは、そうしたいのか?
それでいいのか?

『お金』や『体力』の増減は、まるで正弦波のようなグラフを描くのみです。
すこしずつ、右肩上がりに上がることはあるかもしれませんが、そうなってきたころには、
ゲームは規定サイクルを過ぎ、終了フェイズへと向かうのです。

『人気』『実績』というパラメーターはあなたを喜ばせるかもしれません。
しかし、それは副次的なものなのです。それは『判定』に過ぎないのです。

本当に、何がしたいのか?
いまさら、自分探しとかなんとか言うつもりはありません。
しかしながら、残酷なまでにデジタルに減っていく『お金』と『体力』を前に、
そのような問いは無駄だから悩むなというのも無理があります。

所詮ゲームなのだから悩むな、というのも無理があります。

私は悩んだ挙げ句、次から次へとやってくる仕事依頼を全て断り、最後に一本だけ、
『知識』消費上限の198を費やして漫画を描くことにしました。

このゲームの中では、これ以上の漫画は描けない、というものを作って、それで
もう辞めようと思いました。

それは、事実上、漫画を辞めるということです。

シミュレーションというのは、現実の一側面を切り取るということです。
始まりとプロセスと終わりを、一貫性のあるシステムの中で描く、再体験させるということです。
その一連の体験の中で、なにかを感じ、考えてほしい、というのがシミュレーションなのだと思います。

ということで、ゲーム自体は非常に単純なのだけど、色々と考えさせられたゲームでした。

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

月刊 エッセイ
第774回:『複数の巨人の肩の上』


かの有名なアルゼンチン作家のホルヘ・ルイス・ボルヘスは『八岐の園』の冒頭で下記のように
述べている。

――長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を500ページにわたって展開するのは、
労のみ多くて効少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると
見せかけて、要約や注釈を差し出すことだ。

……

2012年。
私たちの生きているこの世の中には情報が満ち溢れている。
それは早朝に窓を開け、部屋いっぱいに冷たい風を招き入れたときの爽やかさとは真逆の感触である。
次から次へと矢継ぎ早にプッシュされてくる情報は私たちの時間と認知能力を自分勝手に消費する。
ある種の快楽と引き換えに、私たちは朝から早くも疲れ始める。

情報が多過ぎる。それも、多分に、冗長な情報が。

例えば、本が多過ぎる。
私たちは生まれた瞬間に、現存する全ての本を読むことの不可能性を味わう。
本が出版される速度は、読む速度、理解する速度を遥かに超えている。
一般教養として必読とされる古典ですら既に異常に多いのが現状だ。
私たちは比喩でも皮肉でもなんでもなく、古都巡りをしている内に寿命を迎えてしまうだろう。

本以外に、絵、音楽、映画、テレビ、インターネット、SNS、その他もろもろ、
人間が織り成す成果物には全て情報が含まれていて、それらは全て指数的なグラフを描く。

そのような状況の中、私たちはどうすればいいのか?

答えは簡単である。
冒頭のボルヘスの言葉がシンプルな解決方法を教えてくれる。

情報は、要約すればいい。
どうしても説明が必要なら、注釈に飛ばせばいい。

もしも、私たちが情報の出力に加担する側になるならば、ボルヘスのような手法を用いればよい。


●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

月刊 連続小説
第774回:『ポール・ディラックと三島由紀夫のことを同時並列に考えている』


『斑鳩』好きな大学生がいる。

斑鳩はアーケードゲームだ。
2001年の冬に販売され、全国のNAOMI筐体に収まった。
斑鳩はトレジャーが開発した縦スクロールシューティングゲームであり、
シンプルだが奥が深いゲームシステムと白黒を基調とした美しいビジュアルで知られている。

私は新浜大学病院から時折抜け出して、新浜市役所周辺をぶらつくことがある。
新浜は一応、政令指定都市ではあるが、それほど栄えている訳ではない。
古き良き日本の港町を都会風に増築したような、高層ビルに囲まれて50年前の地元民の集会場が
立っているような、そんなアンバランスな都市計画の中にふと思いついたかのように大学が存在する。

大学があるというのは重要なことだ。
若者が自然と街に溢れ、若者のための文化が活気を帯びる。
本屋、電気屋、服屋、雑貨屋、公園、遊び場。

私がひいきにしているゲームセンターは古さは隠せないものの、内装やゲームのセンスが良くて好きだ。
清潔で、観葉植物が置いてあって、空調も良く効いている。

私は自動ドアに手をかざす。透明な仕切りがスライドする。
一歩踏み出せば、色んな音が冷気とともに押し寄せる。

彼は斑鳩をしている。
彼はここではだいたい斑鳩をしている。
斑鳩の隣には怒首領蜂大復活があり、その隣にはギガウィング、グラディウス4、達人王と続き、
その隣には何故かメルティーブラッドがあり、その隣には何故かぐわんげとデススマイル2が並ぶ。
画面としては縦、縦、横、横、縦、横、横、横であり、むしろ異端なのは達人王の方なのかもしれない。

私は彼の斑鳩を見るのが好きだ。というか、私は全般的に、他人のゲームを見るのが好きだ。
私は大復活の椅子に座り、小さく頭を下げる。

彼は3面を飛んでいる。

3面は極太レーザー圧迫面であり、高速スクロール面であり、シャッター面でもある。
斑鳩において、初めに苦手意識を持つのはだいたいこの面なのではないだろうか。
得点を気にしないなら、1~2面、及び、4面はそれほど難しくはない。
敵の弾に合わせて属性を変えて、ただ適当に打ち続けていれば、それなりに進むことが出来る。
ところが、3面はとにかく死ぬ。欲を出さなくても死ぬ。
レーザーに押されて死んで、レーザーにびびって隠れていて地形に潰されて、
直進特攻してくる敵で死んで、シャッターで死ぬ。

彼のプレイはオーソドックスである。
チェインを繋げられるところは繋ぐ。撃ち返し弾はしっかりと吸う。
レーザーを吸い込むよりは位置合わせに集中する。アクロバティックなプレイより、早回し処理に徹する。

斑鳩というゲームは、とにかく気持ちがよい。
反属性でのダムダムダムという撃ち込み音が気持ちよい。全ての敵に耐久力ゲージがあるのも面白い。
敵が死ぬ時のエフェクトが気持ちよい。衝撃波が広がり、爆炎はゆっくりと黒煙に変わっていく。
(黒煙と言えば、アンダーディフィートがスケール感があって好きだ。あれもグレフの仕事だった)

<続く>

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

月刊 連続小説
第774回:『思弁的な、あまりも思弁的な』


新浜大学工学部の綿谷研に私の姉が所属している。その飲み会に私は連れられていた。今回が初めてではない。

ーー最近、ブログを作ろうかなと思っています。

ブログ?
大澤さんはオレンジジュースの瓶の蓋を開けながら、聞き返した。なぜまた、そんなつまらないことを、と言いたげなニュアンスで。

ブログ。
正直に言えば、もう私はブログを作っている。作り続けている。作り始めてから3年が経過している。
その中で、私は何を得たのか。何がわかったのか。答えは簡単で、何も得られず、何もわからなかった。
私はブログを作っていたが、ブログというものが結局はわからない。ブログで何をすればいいのか、どんな形でどう振る舞えば良いのか、何もわからなかった。
しかし、わからないなりにも作り続けていくというのもまた大事だろうと思った。

ーーどんなブログを作るの?

大澤さんはシンプルに尋ねる。それに答えることはおそらく一番難しい。
どんな風に答えても表現しきれないと感じる。
まるで細かい砂を手で掴もうとするみたいに、大事なことは全てサラサラとこぼれ落ちていくはずだ。

ーー囲碁のようなブログを作りたいのです。

ーー囲碁?

ーーシンプルなのに、奥が深く、まるで自律しているように振る舞う世界が作りたいのです。

ブログというのは、全てを含むのだと思います。
ブログには日記を書いてもいいし、食べた料理の写真を載せてもいいし、漫画を描いてもいいし、小説を書いてもいいし、仕事の近況報告をしてもいいし、
買った商品の感想を書いてもいいし、有名人へのラブレターを書いてもいいし、匿名掲示板のコピペをしてもいいし、とにかく何をしてもいいのです。
でも、おそらくは何かに特化してしまうと、それはつまらなくなるのです。
読む方も、書く方も、つまらなくなるのです。世界が閉じてしまうのだと思います。
私がインターネットをしている中で、そのようなブログを多く見ました。

あるブログはとても絵の上手い方が運営をしていました。
そのブログの中では、まるでプロの仕事のような絵が頻繁に更新されていました。
その方は実際にはプロではありませんでした。彼には彼の普通の生活があったのでした。
彼は絵を仕事にしようとは思っていませんでした。あくまでも趣味として絵を描き、それをブログに載せていたのでした。
絵の練習のモチベーション維持のためにブログを活用していたのかもしれません。
また、ゆくゆくは、もしかしたら、絵を仕事にするような日が来るかもしれないことをどこか夢見ていたのかもしれませんでした。
しかし、彼には彼の普通の生活がありました。仕事はどんどんと忙しくなり、彼の人生の中で絵の割合は小さくなっていきます。
いつしか、ブログは彼にとって負担になっていました。
ブログの更新はどんどん少なくなっていきました。適当な下書きでもいいか、と彼は思い、それを実行したときもありました。
ポーズ集を模写したような、のっぺらぼうの人間が並ぶようなブログになったこともありました。
けれど、そんなブログに、価値なんてあるんだろうか? と彼は思ったに違いありません。
なんの個性も無い、人間の輪郭だけが並ぶ、ある意味、不気味なブログに。
彼は別に訪問者数が気になっているわけではありません。ブログを作品として考えているわけでもありません。
でも、これではあんまりだろう、と彼は思ったに違いありません。

彼は二次創作を始めました。
漫画やアニメのキャラクタを描いたのです。彼は絵描きですから、漫画やアニメに興味がありました。
また、彼は基本的に絵がうまいですから、なんでも卒なく描けるのです。
彼のブログは人気になりました。
旬のものを描くとgoogleロボットがひっきりなしにラベリングしていき、お客さんが押し寄せてきたのです。
気分が悪いはずがありません。
その期待に応えようとし、彼はペンを握りました。ブログ開設初期のような情熱が指先に灯ったような気がしました。
やっぱり自分は絵が好きなのだ、と思いました。

エロにも手を出し始めました。
今日、二次創作+エロはイラストブログの常套手段のように見えます。まるで花形のように見えます。
彼もその花道を進んでいきます。
二次創作、エロ、pixiv、同人誌……、まるで何かの重力に吸い寄せられていくように、彼は絵を描き、ブログを更新していきます。

俺はどこへ向かっているのか。

ある夜、彼は思いました。その夜、不思議な感覚が彼を包み込んでいました。
心地よい疲労感があり、充実感があり、穏やかな気持ちが心に満ちあふれていました。
そんな中で、彼は彼自身のブログを見たとき、即座に、つまらないな、と思いました。

可愛いキャラクタが描かれていました。
その少女の着ている制服は少し乱れていて、次の瞬間の行為を想像して、頬を赤くしていました。それは現代的な絵でした。
現代的な、ありがちな、流通しやすい、今もっとも注目されているキャラクタの姿でした。
つまらないな、と思いました。息苦しさを感じました。
その息苦しさは、表現できる領域の狭さによるものでした。
それは無意識的なマーケティングを介して彼自身が作ったフィールドでした。彼自身の牢獄でもありました。
そこから逸脱すると、それは望まれていないものになるのでした。誰もそんな逸脱は望んでいないのでした。
誰も彼の変化は望んでいないのでした。

誰も彼の変化も進化も望んでいないのでした。

世界が閉じてしまった。
もう、彼は何もできない、と思いました。何も描けない、と思いました。
描いたとして、またこれを繰り返すだけになる、と想像しました。それは絶望なのでした。
絵は描きたい。いや、本当に描きたかったんだろうか? 自分は本当は何が描きたかったんだろうか? 

何がしたかったんだろうか?

彼は更新出来なくなりました。絵が描けなくなりました。彼は静かに姿を消しました。
可愛いキャラクタだけがブログに残りました。しかし、時間の経過とともに、やはりそれは風化していくのでした。
劣化していくのでした。

彼を残して、世の中の全ては変わっていくのでした。
彼のように、世界に取り残されたものは古くなってただただ色褪せていくのでした。

私はブログを作る。
もちろん、手間隙掛けてやることなのだから、明るい未来のためにつくる。希望を持って作る。
しかし、作り方を間違えれば自分の首を絞める。私が思うに、全ての破滅は何かに特化することから始まる。

日記に特化すれば、日記のための日常を過ごすことになる。
創作の発表の場にすると、ブログのために創作することになり、息苦しくなる。
商品の感想を書くブログは言いたい放題で楽だが、そんな批評だけの人生はつまらなそうだ。
コピペブログもまた退屈だ。

ブログによって表現出来る全ての形式を含んだブログは可能だが、問題はそういうことではなさそうである。

ーー小説の小説というものがある。小説とはなにかを問う小説。もちろん、もう古びたスタイルだが。

大澤さんが言い、私は頷く。ブログとは何かを問うブログ。今のこの文章のような。ひとつのカテゴリとしてはあり得る。
でも、小説とは何かを問う小説と同じように、それは結局何も生まないだろうことが予想される。

ーー極端なところから考えたらどうかな。究極のブログとはなんだと思っている?

囲碁のようなブログだと思っています。
一手一手が複雑に関係していて、全てが次の局面に影響するような。どれひとつとっても無駄にならないような。
次の一手が今までの全てを含むのです。要は、常に最新の記事が今までの記事を含んでいるのです。
単純な引用ではなく、意味が折り畳まれて含まれるのです。

おそらく、それは絵ではだめなのです。
絵は情熱の消費と共に、どんどん簡素化していくだろうから。
言葉でなければならないと思います。言葉の組み合わせ、文章である必要があると思います。
そして、その文章の意味がどんどん複雑になっていくというのが大事なのだと思います。
それはもちろん、内容の複雑さではありません。

私はそう言いながら、それを稚拙ながら実践してきたつもりだ、と思う。上手くいっているかは別として。
文章は世界を表現する。私の中の世界を。その世界は時間とともに、ブログの更新とともに、複雑になっていく。

ユグドラシルは漫画を描く。
私は文章を書く。
そんなリアルをブログの中に折り畳む。

そんな世界をどこまで作り込んでいけるのか、私は実践的に実験する。
スポンサーサイト
関連記事